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伊良部の漁業
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伊良部島佐良浜地区のはじまり

1720(享保5)年

池間島から分村し、現在の佐良浜地区に池間邑を作る。

1766(明和3)年

池間邑、前里邑を分村する。

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佐良浜には池間島から分村した、池間民族が作った集落がある(現在の伊良部字池間添と前里添)。
「池間民族」とは専門的な民俗学のカテゴリーには存在しないが、存在そのものが伝統的であり、尚且つ誇り高き血脈を自負する海洋民族で、その租となる池間島と、分村により拡大した伊良部の佐良浜地区と、平良西辺の西原地区に暮らす人々のことを呼ぶ。

1889(明治22)年

佐良浜に糸満で発明された沖縄式水中メガネ「ミーカガン」が伝わる。

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それまでは豚の脂などを水面に流し、魚のいる場所を確認するという原始的な漁をしていたが、ミーカガンの伝来によって貝類採取や網漁などが盛んになり、佐良浜の漁が急速に繁栄を始める。
ミーカガン

1907(明治40)年

池間島でカツオ漁が始まる。

1909(明治42)年

伊良部島・佐良浜でカツオ漁が始まる。

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カツオは神の使いとして崇められていたため、池間・佐良浜では漁の対象にはなっていなかった。
愛媛からカツオ節工場の女工を招き、佐良浜でもカツオ節の製造が始められた。

佐良浜の漁業の発展

1915(大正4)年

漁船組合が発足する。

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これまでの帆船にかわり、発動機船が使われるようになり、船ごとにカツオ節工場が次々と建てられるほどに、集落はカツオ漁とともに発展を遂げる。
また、この頃、糸満漁師から追い込み漁(アギヤー)の漁法が伝えられる。

この頃から佐良浜のカツオ漁業は、黒糖と宮古上布と並ぶ、宮古島のドル箱産業となり、「ビールで足を洗った」とか、「タイハク酒(白糖をまぜた酒)」じゃなければ飲まないといった様々な伝説も生まれ、イーザト(宮古島平良の歓楽街)で佐良浜漁師が名を馳せたのもこの時期であった。

佐良浜漁師の選択 南方へ

1929(昭和4)年

この頃からカツオ節の価格の下落と、近海カツオ漁が不振となる。

1933(昭和8)年

大手水産会社と契約を結び、パラオ島でカツオ漁を始める。

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漁場を求めて佐良浜漁師たちは、サイパン、パプア・ニューギニア、ソロモン、ボルネオへ進出。南方への渡航が急増する。
パラオやサイパンでは、佐良浜の分村(コロニー)が生まれるほどの賑わいをみせ、日本語よりも佐良浜方言が通用したともいう話も。南方地図
南方における漁獲高やカツオ節生産の売上高の多くを、本土の大企業が占めていたにも関わらず、本土から見れば一地方の小さな離島である宮古島の漁師たちが数多く雇われた理由は、独自の追い込み漁の高い技術が重宝されたからだという。

そのため、父と息子が南方へ行けば、1年で御殿が建つといわれた。
そんな佐良浜漁師の南方漁業の繁栄を象徴するような歌が残されている。

   『南洋小唄』
    1・浮世恋しい昭和の時代 好きなお金に迷い込み
      遠い南洋に儲けに立つも 船出の哀しさ金思い
    4・恋し故郷後に残し なつかし故郷も遠ざかる
      恋し彼女の姿も後に 向かいて行きます南洋へ
      ※6番まであり。

"元気でお金をもうけて帰るから、達者で待っていてください"という内容が当時を物語っている。

時代は新たな局面を迎える…

1941(昭和16)年

太平洋戦争が勃発。

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南方漁業は中止となり、カツオ節女工たちも島へと戻る。

1960(昭和35)年

終戦から15年。佐良浜の南方出漁が、ボルネオから再開される。

1965(昭和40)年

パラオ、パプアニューギニア、ソロモン、フィジーと操業エリアを拡大。

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第2次南方基地漁業が始まり、佐良浜の南方漁業の操業も本科化すると、カツオの水揚げ量は県内随一を誇り、従事者は700名を数え、島の経済は再びうるおったが、中には台風や事故などで命を落としたものも少なくはなかった。
「板子一枚下は地獄」
島で待つ家族は、航行の安全と豊漁を神に祈った。

佐良浜漁師たちを襲う、さらなる受難

1973(昭和48)年

第一次オイルショック

1977(昭和52)年

200海里(排他的経済水域)の制定

1979(昭和54)年

第二次オイルショック

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200海里の制定による規制。オイルショックによる燃料高騰。そしてカツオ漁価の低迷と、遠洋漁業をめぐる環境が厳しさを増し、遂に南方漁業は終焉を迎えます。

日本初のパヤオ漁を開始

1982(昭和57)年

伊良部漁協が日本で初めてパヤオ(浮き漁礁)を宮古島近海に設置

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パヤオとはフィリピンのタガログ語でイカダ意味する言葉。
海の表層や中層に浮遊する人工物を設置し、漂流物の影に生息する小魚を求めてカツオやマグロなどの大型回遊魚が集まる習性を利用して集魚を図る漁法で、日本では伊良部漁協が初めて採用したことから、伊良部は日本のパヤオ発祥の地と云われている。
このパヤオ漁を導入したことにより、漁場までおよそ2時間という近海で、安定的に釣果を得られるようになり、漁獲高を大幅にアップさせることに成功。現在、宮古島近海には10数基のパヤオが設置されている。

伊良部島のカツオの一本釣り

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伊良部島のカツオ漁はの県内シェアの8割。他の地区では近海カツオ船も残っていない。カツオ船3隻(県内に5経営体のみ)

カツオの一本釣りは生き餌を撒いて、それにつられて集まるカツオを、文字通り竿で1匹ずつ疑似針でひっかけて釣り上げる漁法。
カツオの群れを探し当てたら、船上は漁師たちの戦場となる。
釣り上げた勢いで、カツオが釣り針から離れて空を舞う様子は勇壮そのもの。
その技を習得し、一人前になるまでには3年はかかるといわれています。

カツオの一本釣りに欠かせないのが生餌。
生餌となるのは主にグルクンなどの稚魚で、カツオを豊漁にするには、生餌が十分にあるかどうかにかかっている。
佐良浜では各カツオ船に、全国的にも珍しい餌取り専門のグループがあり、たくさんの餌取りを可能にしているのは、島の伝統漁法アギヤー(追い込み漁)の技術で、これが佐良浜のカツオ漁を支えている。

佐良浜のアギヤー漁

スペーサーアギヤー漁

アギヤー漁は糸満海人によって生み出された漁法で、水深20〜30メートルほどの海底に網を設置し、漁師たちは潮の流れと海底の地形を巧みに読み、魚がどの方向に逃げるのかを分析し、的確に網へと追い込む。
これがGPSのない時代に天測(スターナビゲーション)で、南方まで航海をしていた佐良浜漁師の実力といわれ、今では沖縄の中でも佐良浜でしか行われていない。

現役のアギヤー漁師の平均年齢は65歳。後継者の育成が急がれるが、県内のグルクンの5割を、佐良浜のアギヤー漁が担っていることはあまり知られていない。

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平成26年度地域観光資源創出支援事業
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